モフモフ社長の矛盾メモ

ヒゲとメガネとパンダと矛盾を愛するアーガイル社のモフモフ社長が神楽坂から愛をこめて走り書きする気まぐれメモランダム

乙武さん入店拒否問題で考える「セレブ意識の客、セレブ意識の店」

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乙武さんが、予約したレストランに行ったら、車椅子での入店を拒否された。
その批判を店名つきでTwitterに投稿したことで、ネット上で話題になっている。

乙武洋匡さん、銀座の「TRATTORIA GANZO」に「車椅子だから」と入店拒否される - Togetter


今回の出来事、現場での細かいニュアンスは当事者以外にはわからない。
なので、客観的事実と思われることだけを抜き出すと、こうだ。

  • 乙武さんが電話で銀座のイタリアンを予約した。
  • お店の紹介サイトには店舗が2階であること、
    2階にエレベーターは停止しないこと、が書かれていた。
  • 電話予約時に乙武さんは車椅子で来店することを伝えていなかった。
  • 乙武さんが当日来店したら、車椅子で入店はできないと店長から伝えられた。
  • 乙武さんが、この顛末を「屈辱」「人としての尊厳を傷つけられ」たとして、
    具体的な店名を出して批判のツイートをした。
  • 店長から「御無礼申しわけありませんでした」「少ないスタッフで営業しているので事前に言って欲しかった」などの返信があった。
  • ネットでは賛否両論で議論が盛り上がっている ← 今ココ

なぜ事前に伝えなかったのか

一番の疑問なのは、これだ。
乙武さんはなぜ予約時にひとこと「車椅子で来店します」と伝えなかったのか。

例えば、事前に何も言わずに乳幼児を連れていっただけでも、入店を断られることはある。電話予約とは、お店を利用する前の打ち合わせだ。人数と時間と連絡先を伝えるのは最低限として、「そのうち2名は途中から遅れて行きます」「3歳児が1名います」「ひとりは卵アレルギーです」「200Kgの体重なので普通のサイズの椅子には座れません」「彼女の誕生日なんです」など、伝えておかなければ、それ相応のサービスは受けられない。

これはあくまで想像なのだが、今回の乙武さんのクレーム発言の裏には、「障害者への侮辱」という心証に加えて、「言わなくても察してくれる」という「著名人としての扱いを受けられなかった」ことへの憤慨も多少は含まれているのではないだろうか。この乙武さんの「セレブ意識」疑惑については、後に詳しく考察したいと思う。

単純に、お店との相性が悪かった

そもそも、飲食店選びなんて、人付き合いと一緒だと思う。

相性が合えば通う。美味しければ通う。
美味しくても相性が合わなけりゃ通わないし、美味しくなくても相性が合えば通うんだよね。

特に個人経営のお店は、人対人の要素がとても大きい。当然、全ての人にぴったり合うサービスなんて提供できない。毎回どこの店舗に行っても同じ質のサービスが受けたい人は、しっかりとしたマニュアルがあるフランチャイズのチェーン店だけ使えばいい。

それの最たるものが、高級ホテルチェーン。
リッツカールトン、フォーシーズンズ、ハイアット、ペニンシュラ、シェラトン、ヒルトン、マンダリンなどなど。世界のどこに行っても、同じ待遇が受けられるし、お得意様なら宿泊中は名前や顔だけで判断して最高のサービスを用意してくれる。
よく、大御所の芸能人などで「楽屋に、おーいお茶を60度に温めたものと、キャラメルコーンからピーナッツだけ避けたものを置いておくのが決まり」みたいな逸話があるけど、高級ホテルの常連になるとそれと同じようなことをやってくれる。

仕事上で黙っててもそういう待遇を受けたいなら、秘書やマネージャーを雇って全てやってもらうことだ。プライベートでも同じ待遇を受けたいなら、執事を雇うか、馴染みの店や高級ホテルチェーンにしか行かないことだ。

乙武さんの思い出とセレブ意識

今回のことで、乙武さんは飲食店の対応にずいぶん不寛容な人なんだな、という印象を受けた。

お店で不快なことがあっても、店名を名指しで食べログやTwitterなどに書くのって結構勇気がいる。フォロワー数が4500ほどの自分でさえそうなんだから、60万フォロワーもいたら影響力の大きさは自覚していると思う。

自分は乙武さんと同時期に同じ大学に行っていたので、学内外で何度か見かけたことがある。当時は、常に友人と思われる大勢の取り巻きと一緒だった。大学周辺の普通の飲食店でも見かけたことがあるが、取り巻きの友人達が手助けをしてくれるので、お店の協力無しでも問題なく入店して食事をしていたのを覚えている。
自分の意志で馴染みの店やチェーン店以外の飲食店に行くようになるのって、だいたい大学生くらいからだし、彼はその時点から有名人だったから、もしかして「無名な人が普通にふらっと入った時の一般的な個人店の対応」というものを、あまり知らないんじゃないのかなと勝手に想像した。

何も言わなくても、自分が望んだサービスを相手がしてくれると思っている。そして、そのサービスが受けられないと憤慨する。それが、セレブ意識の客の特徴だ。セレブという言葉を使ったが、金銭的な問題ではない。お店で必要以上にキレている客の大半が、これだ。お店側が望んだサービスをしてくれなかったら、冷静に交渉すればいいだけの話なのだ。

今回の乙武さんの例は、障害者に関する複雑な事情が混ざっていて、とてもセンシティブだ。車椅子を拒否した、という理由で一方的にお店を叩くのは簡単である。お店に障害者が来店したときに、お店の人や客が協力して介助する、というのは素晴らしいことだし、事前にわかっていれば問題なく対応できる。だが「事前に何も言わなくても察して対応してもらえる」というのは、本当に一般人にとって当たり前のサービスなのだろうか?

余裕のないサービス先進国&バリアフリー発展途上国

障害のあるなしに関わらず、不自由そうな人がいるのを見れば困っていることは想像できるし、誰かが困っていそうな時に自分の手が空いていれば助けるのは当たり前だ。しかし、それには相手が困っているかどうかを判断できる想像力、コミュニケーション能力、他人を助けられるだけの余裕が必要だと思う。

だからこそ、聴覚や視覚や言語など、コミュニケーションが難しい障害者のために、点字や音声案内、筆談ボードなどの伝達手段を整備することは社会の努めだ。それに加えて、徒歩での移動が困難な障害者やお年寄り、妊婦や乳幼児を連れた家族のために、スロープやエレベーターなどの施設を整備することも重要だ。多くの人が使うようなお店や施設は、どんどんバリアフリーになっていくべきだと思う。

だが、それが日本社会全体もまだまだ発展途上な状態で、店を営業するだけで精いっぱいの個人経営の店で、バリアフリーや対応の準備が追いつかないという事情も、わかるのだ。

小さな飲食店は障害者の人に対応する余裕なんて無い

これは、はっきり言って本音に近い極論だと思う。日本人のサービス産業へのサービス要求水準は、はっきり言って異常に高い。チップを払う文化圏や、料金に多額のサービス料が含まれるような店ならわかる。だが、人件費と場所代と材料費と宣伝費を切りつめて、ギリギリの良心的価格で提供しているような店でも、過剰なサービスを求めるのはどうかと、思う。今回の事例は、バリアフリーへの取り組み不足もあるが、サービス要求水準の過剰さもあって、どちらが悪いとも言い切れないグレーゾーンなんじゃないだろうか。

「俺ルール」の店は、店主がセレブ意識

外部から見てわかる情報だけでコメントするなら、電話だけでは車椅子での来店が想像できなかった上に、多忙な営業中の突発的事態に対処する余裕が無かった、お店の都合もわからないではない。その上で、お互いの言葉遣いやら態度やらで、どっちがより悪いかどうかのプラス評価、マイナス評価は発生する。でもそれは、つきつめれば当事者同士にしかわからないことだ。

店長のブログでの発言
乙武様のご来店お断りについて。

乙武さんのTwitterでの発言
https://twitter.com/h_ototake/status/335704926523109378

このツイートから見るに、店長の態度もあまり丁寧ではなかったのかもしれない。「これがうちのスタイル」という趣旨のことを本当に言ったのなら、この店はセレブ意識を持った「俺ルール」の店だったということも考えられる。

この店がそうかはわからないが、頑固親父と自称する店主がやたらと「俺ルール」を押し付けるお店はある。これも「いつでもどこでも同じサービスを受けたい」セレブ客と同様に、「うちのサービスを喜んでくれる客だけを相手に商売をしたい」というセレブ意識の店主のお店なので、そういうところは常連と知り合いと理解者だけを相手に商売を続けるといいんじゃないだろうか。

個人的には、常識的なマナー以上の「俺ルール」を押し付ける飲食店は、あまり好きではない。ただ、そういうお店は電話予約したときなどに、「うちは全員揃ってからじゃないと入店できないから」「うちは飲み屋だから酒飲めない人はダメだよ」などと俺ルールを押し付けて来るので、だいたいわかる。

「文章書き起こし」のはらむリスク

そもそもの前提として、プライベートなシーンでの言葉のやりとりについては、一方的な言い分だけで、他人がどうこう言うのは間違ってると思っている。
まず第一に、録音でもしてない限り、記憶が正確なわけがない。次に、文字起こしした文章だけで、前後の文脈や空気感やお互いの非言語コミュニケーション(表情、所作、態度)のニュアンスが伝わるわけがない。これは、たとえ録音から正確に文字起こしした場合でも同じこと。

会議や商談など仕事の場合は、共通の「コード」を守ってコミュニケーションしているから、文字起こしの精度はそれほど下がらなかったりする。たとえ仕事でも、接待飲みとかゴルフ場でのフリートークの全文起こしをしたら、その場のニュアンスは伝わらないと思う。

さらに文章化する時には「文章力」と「恣意的意図的な編集」と「発信者と掲載媒体の権威」という3つのバイアスの問題が絡んでくる。

まず1つめに「文章力」。
けんすうさんの謝罪文講座の例にもあるように、一般に「文章力」が高い方が説得力があり有利だ。

僕がGunosyの社長だったらこのように謝罪文を書きます - nanapi社長日記 @kensuu

口が達者な方が、一般的に交渉が上手なのと同じこと。誤字脱字が多くても、文章が支離滅裂でも、正しい主張をしているかどうかには関係がない。でも、文章が読みにくいというだけで説得力がなくなってしまう。これは、普段文章を書き慣れていない人は圧倒的に不利だ。さらに凄く文章が達者な人は、わざと崩して隙を作ったりしてくる。外回りの営業なんかでも、わざと話下手な感じを出したり、馴れ馴れしくしたり、不機嫌そうなふりをしたり、みたいなことで愛される高等テクニックはあるわけで。これは文章でも同じ事だ。

次に、文章化するということは必ず「恣意的意図的な編集」が加わることだ。
インタビューされた後に、インタビュー記事にされた経験がある人は、よくわかると思う。掲載する文章部分の取捨選択、細かな言い回しや語尾、(笑)「!」「……」などの記号の付与、文章全体のボリューム配分、発言の順番などを微調整することで、書き起こし文を読んだ時の印象を自由にコントロール可能だ。つまりあらゆる文章とは、多かれ少なかれ書き手の意図に沿った内容になっているという前提で読まれるべきなのである。
ちなみに、全文まるごと書き起こしでも恣意的意図的編集は可能だ。例えば、話者が詳しく説明しつつ繰り返し発言しているテーマがあったとして、それが本当に話者が強調したい部分なのか、聞き手が首を傾げていたために詳しく説明したものなのかは、書き起こし文を読んだだけでは判定できない。

そして3つめに「発信者と掲載媒体の権威」の問題。
同じ投稿内容でも、無名な人がツイートするのと、有名人がツイートするのとでは、反応が全く異なる。さらに全く同じ主張でも、無名な個人ブログに掲載された文章と、著名人の出版した書籍に掲載された文章とでは、信頼性や反響が全く異なる。リアル(出版界隈)でもネット(ソーシャルメディア界隈)でも、書き手の名前と掲載場所による権威付けは明確に存在する。

今回の事例に限らず、会話の書き起こしの文章を読む時は、これらのバイアスを取り払った上で、公平に判断する必要があるんじゃないだろうか。

最後にまとめ

乙武さんは、電話で車椅子で来店することを、事前にひとこと伝えるべきだった。

お店の人は、車椅子が入りにくい店の構造であること、車椅子での来店は事前に伝えて欲しいということを明記すべきだった。また、忙しくて余裕が無いことを理由にサービス(対応が難しい場合、丁重に入店をお断りするとか、店内の客に助けを求めるという緊急時の対応も含めて)の質を落とすべきではなかった。

そして乙武さんは、店名を名指しでの感情的なクレームを60万人に発信すべきでは無かった。正直これだけで小さい店なら簡単に潰れてしまう。誰かが言っていたが、これは明らかにオーバーキル(やりすぎ)である。

一方で、日本社会のバリアフリー意識の低さ、行政のケアの薄さ、サービス業への要求水準の異常な高さ、商売をする人の余裕の無さなども問題かもしれない。まだまだ議論の種はつきない話題だが、個々の“問題点を混ぜあわせる”ことがないように留意して議論して行きたいと思っている。

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