モフモフ社長の矛盾メモ

ヒゲとメガネとパンダと矛盾を愛するアーガイル社のモフモフ社長が神楽坂から愛をこめて走り書きする気まぐれメモランダム

映画「JOKER」のテーマを考える 〜 ジョーカーへの共感の正体 〜

映画「JOKER(ジョーカー)」を観た。言わずと知れた、バットマンの悪役の誕生秘話を描いた前日譚だ。ノーラン監督の手掛けた「バットマン・ビギンズ」は、以降のアメコミヒーロー映画がリアルな描写や人物造形でヒーローやヴィランの誕生と対立を描くという方向にシフトするきっかけになった作品だ。そして、その完成形とも言うべき金字塔が、故・ヒース・レジャーの神憑り的な演技が生み出した新生ジョーカーとバットマンとの心を抉るような対立を描いた「ダークナイト」であることは言うまでもない。

 

もちろん、今作「JOKER」はノーラン監督作品ではないし、過去のシリーズとのつながりも無い。ここから新たなバットマンシリーズが始まる予感はするが、どちらかと言えば人気キャラクターを借りて、自分の語りたいテーマを描いた作品という印象が強い。この意味では、ノーラン監督が3部作でやったことと非常に近いのかもしれない(たぶん監督は「ダークナイト」を撮りたくて3部作を引き受けたはずだ)。

 

前評判や期待値が高過ぎたこともあるが、そこまでの衝撃はなかった。アメコミのヴィランの誕生を描くキャラクタームービーという手法を取りながらも、搦め手を使わずにテーマを真正面から丁寧に描いた、凄くまっとうな映画だった。ただ、今の時代にアメリカを舞台にこの映画を撮り、ハリウッドの配給に載せて全世界に届けることには、大きな意味があると思った。王道のストーリーのディテール描写を味わうタイプの映画で、ネタバレを気にするものではないのだが、本稿では本筋に触れない概念的なテーマ考察を中心に、話を進めて行く。

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これは強者と弱者の映画だ。

スクリーンには、徹底して強者と弱者の姿が描かれる。その姿の多くは、他人事として遠くから眺めれば喜劇なのだが、弱者側の視点から見ればまぎれもない悲劇だ。冒頭シーンとラストシーンが、それを明確に示している。

 

この映画は、強者と弱者の非対称性をえぐり出す。

強者にとって、暴力と幸福は日常であり、奉仕と抑圧は非日常でしかない。富める者の持つ暴力性は、しばしば社会構造に覆い隠され、不可視となる。
弱者にとっては、奉仕と抑圧こそが日常であり、暴力と幸福は非日常または妄想の中にしかない。作中でジョーカーの過ごす日々は、職場でも家でも奉仕と抑圧の連続であり、ささやかな幸福な日常は、思い込みや夢や妄想やフィクションの中にしか存在しない。貧困と障害と介護に疲弊した日常の中で、ジョーカーに向けられた理不尽な裏切りや直接的な暴力は、彼の中の暴力の芽を着実に育んでいく。

 

弱者の日常である地道な労働や奉仕は誰にも褒められないが、強者の行うPRとしての奉仕や慈善活動は、強いブランドイメージを生み、さらなる富を呼び込む。

強者の暴力と弱者の抑圧は笑いとして消費されるが、追い詰められた弱者がまれに暴力を行使すると、それは眉をひそめる凶悪事件として消費され、さらなる弱者集団への抑圧を生む。

これはマウンティングとヒエラルキーをベースにした資本主義社会の基本構造とも言えるのだが、本作の舞台となるようなストライキやデモの続く非常事態=非日常下においてはそのルールが時に逆転現象を起こす。かくして、ジョーカーの起こした凶悪犯罪は、強者に抑圧された弱者集団にとっての解放の象徴として祭り上げられる。しかし、彼自身にはそんな崇高な政治的意図はない。民衆は、ジャンヌ・ダルクのように都合の良い依代を求めただけなのだ。

今作におけるジョーカーは、無差別に暴力を振るうのではなく、彼なりに筋を通している。彼の暴力衝動はいつでも、彼を抑圧し暴力を加えた対象に対する、主観的で純然たる怒りだ。だからこそ、観客は思わず彼に共感してしまう。抑圧から暴力に至るカタルシス。これが観客のジョーカーへの共感の正体だ。

彼の行う私刑という手段の正当性を無視して、彼の持つ正義や怒りの感情の正当性だけを見て共感してしまっている。これは現在のSNSでしばしば起こっている「正義の暴力の正当化」構造だが、ジョーカーに共感している人々の多くは、果たしてこの矛盾と恐ろしさに気づいているのだろうか。正義の名のもとに誰かを断罪する時、あなたは(そして私は)強者と弱者、どちらの側に立っているのだろうか?

 

いくつかのレビューで、本作における人種や職業や男女や障害者の扱いがポリコレ的にかなり雑なのではないか、という意見があった。それは全くそのとおりで、そこはテーマに沿って綺麗に構造を作るのではなく、違和感の無いようにいわば適当に決められているように思う。本筋である「強者と弱者」「暴力と抑圧」そして「悲劇と喜劇」というテーマを描くために、そこに無関係な要素を絡めたくなかったのではないだろうか。

 

革命を、抑圧されて来た弱者集団が強者集団を暴力をもって打ち倒し、自らが強者の座につくことと定義するならば、そこには弱者を立ち上がらせるためのストーリーと、強者を打ち倒す暴力の象徴となるカリスマ(しばしばスケープゴートとしての鉄砲玉)が必要になる。

 

かつての強者を打ち倒し、新たな強者の座についた弱者は、果たして弱者なのだろうか? 強者なのだろうか? 革命家がそのまま新たな政権で王座につくことは、独裁と腐敗を生む。歴史が繰り返して教えて来たことだ。それが革命ではなくテロリズムであれば、どうだろうか?

新たな秩序のための戦いではなく、不公平への反逆心から現状の破壊のみを望むテロリズムにとって、混沌こそが日常だ。もし「JOKER」の後の物語が、原作や過去のバットマンシリーズの展開を踏襲するのであれば、今後のジョーカーが身を投じるのは、そのような終わりのない怨嗟の渦巻く世界だ。

革命の時が終わり、世界にひと時の日常が訪れる時、彼の日常は幸福に満ちているのだろうか? 新たな秩序を維持するために、暴力をふるい続けるのだろうか? それとも混沌を日常とし、自らを犠牲にし続けるのだろうか?

 

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「ハングオーバー!」など、喜劇映画の名手と言われるトッド・フィリップス監督は、何故このようなジョーカーの映画を撮るに至ったのか。

その真意がわかるような続編が待たれる。