後悔している。この映画を、こんなに上映期間終了ギリギリに観てしまったことを。この映画の良さをどんなに伝えても、あと数日だけでは、これを読んだほとんどの人に劇場で観る機会が残されていないかもしれない。
この映画をいわゆるラブストーリーと思って観ると、良い意味で裏切られるかもしれない。とても優しい映画でありながら、自分の他に「大切な存在」を持つ全ての人々に叩きつけられた、美しくて残酷な問題提起だからだ。
これは、あらかじめすべてが喪われている物語だ。そして、世界のすべてが美しく見えるという『きらきら眼鏡』を心にかけて生きることの意味を問う、優しくて切ない物語である。
「きらきら眼鏡」予告編
前作「つむぐもの」の時にも思ったが、犬童一利監督の映画は、新しい作品を撮るごとにどんどん良くなって行く。犬童一利監督作品に共通する、独特なカメラの眼差しを無理矢理に言葉にするならば、それは「優しさに溢れたハードボイルド」だ。もしかすると、これは毎回共作している脚本家の守口悠介氏の眼差しでもあるかもしれない。
犬童一利監督の映画は、本当に驚くほどに、セリフや演技や演出でテーマを語らない。テレビドラマや邦画の伝統的なコードに全く縛られていない。具体的に言えば「作り手が作中の人物の感情に流されていない」のだ。
ただ、そこにいる人々を生来の優しい目線で切り取り、何も加えず何も引かずに(もちろん撮って出しなどではなく、結果的にそうなるように徹底的に計算しつくされた上で)観客に見せている。どこにでもいそうな人々の日常が、実に2時間ものあいだ観る人を惹きつけ続ける映画として見事に成立している。
分かりやすさが美徳とされる時代に、ここまでテーマの解釈を観客に委ねる商業映画があるのか、と驚くかもしれない。とはいえ、ストーリーも演技も描写もセリフも、難解なところはひとつとしてない。物語の筋もまっすぐ通っている。それなのに、あらゆるシーンで、その意味を深く深く考えさせられるのだ。あたかも自分の生きて来た人生を、あらためて客観的な映像で見せられているかのように。
喪った大切な人をいつまでも忘れることが出来ない、ということは、死ぬ者にとっても遺された者にとっても、残酷な呪縛であると同時に救済でもある。それらは表裏一体なのだ。
テレビ局が仕掛けるタレントづくしの邦画の、大仰な演出に飽き飽きしている人にこそ観てほしい映画だ。約2時間、登場人物たちと同じ時間軸をともに生きた末に、何気ないラストカットの信じられないほどの美しさを、その身でぜひ実感してほしい。
ちなみに都内は、シネマート新宿(伊勢丹の向かい、コメ兵の隣)で、10月18日(木)まで16時半からの上映。吉祥寺の「ココロヲ・動かす・映画館」では、10月21日(日)まで上映している。物語の舞台となっている千葉県のららぽーと船橋のTOHOシネマズでは、ロングラン上映が決まっているようだ。また、首都圏以外の劇場公開はこれからとのことなので、ぜひ観てほしい。