モフモフ社長の矛盾メモ

ヒゲとメガネとパンダと矛盾を愛するアーガイル社のモフモフ社長が神楽坂から愛をこめて走り書きする気まぐれメモランダム

劇場版レヴュースタァライトは、何かに青春の全てを捧げた同志たちの『関係』のみを描いた濃厚な心象劇だった

ブログの表題で、言いたいことはほぼ言い終えた。これは具体的なネタバレを含まない評論文である。

『劇場版・レヴュースタァライト』は、何かに青春の全てを捧げた同志たち(さまざまな組み合わせの二人組)の『関係』のみを丁寧に描いた濃厚な心象劇であり、間違いなく傑作だった。

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結論から言うと、この作品を絶対に観るべき人は「凝りまくった演出のアニメが好き」で、「青春の一時期を犠牲にしてまで何かに取り組んだ経験があり」、「友人は、一緒につるむ遊び友達というより、仲間やライバルや同志と呼ぶべき関係性が多い」人なのかな、と。これらに当てはまる人は、今すぐ観るべきだ。

繰り返しになるけれど、「何かに本気で打ち込む『同志たち』の『関係』そのもの『だけ』を描いた作品」。たぶんこれに早く気づけるかどうかで、この作品が心にぶっ刺さるかどうかが決まるのではないかと思う。ネタバレではないので、未見の人はこれだけでも覚悟してから観た方が、鑑賞の質が高まります。

※なお、このブログ記事は劇場鑑賞した直後に走り書きした感想メモをベースにしており、公開のタイミングを逃して約半年も下書きのまま寝かしておいた後に、サブスク配信を機に加筆修正して公開されたものです。

 

自分は、TV版2話までと、総集編的な映画「ロンド・ロンド・ロンド」だけを観てから、今回の劇場映画を観た。(その後、テレビ版も改めて全話観たが、かなり楽しめた)

正直、劇場版を観るまでは、この作品の個人的評価はそれほど高くなかった。本作を知った入り口が『幾原邦彦監督の弟子筋にあたる監督による、ウテナ的な演出が売りの作品らしい』という方向性だったのが、かなり先入観になって、素直な鑑賞を邪魔していたのかもしれない。

とは言え『機械仕掛けと舞台劇演出のマリアージュ』という、幾原イズムとも言える演出センスは、この作品にも色濃く出ている。古くは特撮やロボットアニメの出撃(ワンダバ)シーンから発する、歯車やレールなどの複雑な機構が変則的にグリグリ動く映像の快感と、古くは魔女っ子からセーラームーン(幾原監督の参加作品)の変身バンクに連なる美麗な映像演出との融合、そこに宝塚や天井桟敷など様々な舞台演劇の演出要素を組み合わせた、あのドラッグ的な映像は、この作品にもしっかりと引き継がれ、正統進化を遂げている。

しかし、幾原監督作品と大きく異なるのは、作品中の時代性や社会的なテーマの不在だ。だが、そのことで逆に、この作品が普遍的な人間そのものを描くことに集中していることに気づいた。

このアニメには、時代性や社会性やテーマは不要なのだ。不要だからこそ切り落とされているのだ。ただ少女を、いや、少女と少女との「関係」だけを描くために研ぎ澄まされ、特化されている。

どこまでも純粋に、同じ夢を追う者同士のさまざまな2人の「関係」だけを、ひたすら丁寧に描いた作品だ。

少女達の本音は、全てが心象風景として舞台の上に具現化する。驚くべきことに演出の全てが心象風景だ。個々のエピソードや人物設定、ストーリーすらも、少女達の心を映し出すための装置、すなわち演出の一部でしかない。

 

この作品の登場人物はすべからく、煌めく舞台に立つために普通の少女の楽しみを全て犠牲にして生きて来た、選ばれし者たちだけである。それ以外の人間は、家族やモブキャラとしてすら登場することはない。こんなにも特殊で純度が高くスコープ(視野)の狭い作品は、他に類を見ない。

だからこそ、日々の努力も、自分の才能に対する苦悩も、舞台の上で脚光を浴びることすらも、彼女達にとってみれば毎日繰り返される単調な「日常」なのだ。普通の作品ならば、メインテーマにもなりうるそれらの事象は、彼女達にとっては単なる日常生活の一部なので、特に重要なものとして描写されない。

そんな彼女達にとっての非日常、すなわちこの作品が描くメインテーマになっているものとは何か。それは、舞台のために切り捨てて来たはずの「友情」と「人間関係」だ。

百合などという安易な表現を用いることは憚られる。この作品で描かれているのは、友人を超えた同志、仲間、ライバル、相互依存、師弟などの普遍的な関係性の発露である。

それら一般人にとっての日常が、非日常としてケレン味満点の演出とともに描き出される異常性こそが、本作「少女歌劇レヴュースタァライト」の本質ではないだろうか。

それを見つめる狂言回しのキリンは、実のところ我々観客の投影であり、舞台上の彼女達を燃え上がらせるための名もなき燃料であり養分なのである。そして我々は今日も、彼女達の燃料になるため劇場に足を運び、舞台という夢のために普通を捨てた少女達にとっての舞台裏=非日常=普通を垣間見るのである。

個人的には多忙につき、劇場では三度以上観ることはかなわなかったが、サブスク配信された今なら、いつでも燃料となって彼女達の「非日常=普通」を眺めることが出来る。未見の人もぜひ、夢のために全てを焼き尽くさんとする少女達の一瞬の輝きを見守る、一塊の燃料になる体験を楽しんでほしい。

 

PS

最後に個人的な感想メモを。少女達の関係性の中でも、天堂真矢と西條クロディーヌのシークエンスが、特によかった。作品全体を通じて驚きと感動に包まれていたが、特に胸に響き実際に涙が出たのは、そのシーンだった。

まさに夢に青春を燃やした者達にとっての、エヴァーグリーンになりそうな「わたしの推し」作品である。サブスクでまた、何度もじっくり観ようっと。

【評論】フィロソフィーのダンス『ジョニーウォーカー』に見る、佐藤まりあの”再発明”

2021年10月20日、フィロソフィーのダンスの新曲『ジョニーウォーカー』が発表された。

米国出身の実力派バンドGROOVE ASYLUMがアレンジと演奏を担当したことが話題だが、楽曲派ファンの一人として、この楽曲の聴きどころは、そこだけではないと思っている。

 

『ジョニーウォーカー』の存在意義を一言でいえば、佐藤まりあの "再発明" である。

「フィロソフィーのダンス」という邪道とも言えるほど個性派揃いの4人の中で、正統派のアイドル道を一人征く、まりあんぬこと彼女の歌声の魅力は、残念ながら埋もれてきた。

グループ結成の初期から、底抜けにファンキーな超絶ソウルの申し子:日向ハルと、唯一無二の脳トロボイスシンガー:奥津マリリの、2人の歌唱力・表現力はやはり抜きん出ていた。そこにかつては、素っ頓狂な萌えボイスのおとはすこと十束おとはが色を添えて更にカオスになりかけたところを、まりあんぬの素直な歌声が全体をアイドルの枠に引き戻す調整役をしていたように思う。


思えば、まりあんぬにしか歌えないフレーズは、過去にも多々あった。その代表格が『なんで?』の中の0:35「逃した魚の 水族館」だ(大好きな歌詞である)。

あのパートは彼女にしか歌えない。力強く安定感のあるBメロの入りと言えば、まりあんぬだったのである。とはいえ、歌声の個性や存在感では、他のメンバーに隠れがちなのは否めなかった。


しかし、おとはすが先に変わった。

その片鱗は『シスター』だった。2019年のアルバム版ではない。2020/11/19にYouTubeで公開されたアコースティックバージョンである。

2:20の「昨日の可愛い子は誰? ああそうなの 契約なんて無いし、もう仕方ないことね」のフレーズで、彼女は低音の歌唱力・感情表現ともに他のメンバーの誰にも真似できない領域に到達して見せたのである。


そして、その後の『テレフォニズム』の全編にわたって、おとはすは、唯一無二の存在感を放つ最強のウィスパーボイスの歌い手として、文字通り生まれ変わった。

カヒミカリィ、もりばやしみほ、やくしまるえつこを例に出すまでもなく、ウィスパーボイスは女性シンガーにとって飛び道具と言えるほど超強力な武器、いや兵器である。おとはすは、萌え声、アドリブ感情表現、低音歌唱力に加えて、ウィスパーボイスという超強力な個性を手に入れたのである。


一方で近年、まりあんぬの歌唱力も飛躍的に向上していた。

『ダブル・スタンダード』においても、その伸びやかでアタックの早いハイトーンボイスは、「歌の上手なアイドル」の域を超えて、少しづつシンガーとしての個性を発現させようとしていた。彼女の素直な声のパートやコーラスが無ければ、他のメンバーの個性とアクが強すぎてしまう楽曲も多く、もはや欠かすことのできない役割になっている。しかし、それでもまだ彼女の素直な歌唱は「アイドルグループとしてのアイデンティティに立ち戻る声」であり、個性的なシンガーの歌声とは言えなかった。


そこに来て『ジョニーウォーカー』である。

もはや彼女の役割として定着した低音歌唱力を発揮する0:56おとはすパートに続いて、最初のまりあんぬパート1:06で、度肝を抜かれた。


「擦り寄るように 甘えるように 胸の中まで」。その歌詞の通りに、どこまでも透明で伸びやかなハイトーンからスムーズにファルセットへと移行する、それはこの曲の最大の魅せ場と言ってもいいレベルの歌唱だった。歌声を聴くだけでも、そこだけ時間が止まっているかのように、彼女にスポットライトが当たって見えたのである。


そして2番のBメロ後のCメロ、ハルのソウルが爆発する「足りない Hey Master! もう一杯頂戴」のパート2:25に続く「Oh baby baby! 可愛いHey boy  おままごとじゃない」のまりあんぬパート2:33で完全にノックダウンされてしまった。

これはクロスカウンターだ。直前のハルの剛腕パンチに全く負けていない、ストレートパンチの応酬なのである。こんなにパンチのある、まさに決めゼリフにも似たサビのパンチラインを担える歌い手だとは気づいていなかった。


思えば今までも、まりあんぬパートはどれも歌詞が個性的で独特の世界観だった。それを今までは綺麗な声で素直に歌っていたから、わからなかったのだ。彼女の歌声の持つパンチ力に、この曲で初めて気付かされたのである。そして、これは他のメンバーの誰も持っていない唯一無二の個性である。


ここから、アイドルシンガー佐藤まりあの飛躍が始まることは間違いない。アタックの早い伸びやかなハイトーンボイスはパンチ力を手に入れて、彼女だけの最強の個性となった。

かくして、4人全てが全く異なる強い個性と歌唱力と表現力を手に入れて、文字通り最強のカルテットと化したフィロソフィーのダンス。プロデュース陣は今後も、4人の個性をフルに活用した楽曲をどんどん投入して来るはずである。

ここから先、彼女らがアイドルという表現者として、さらにどこまでの高みに到達するのか、楽曲派ファンの1人として今から楽しみで仕方がない。

 

ジョニーウォーカー

ジョニーウォーカー

  • フィロソフィーのダンス
  • J-Pop
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

 

話題の音声SNS『Clubhouse(クラブハウス)』入門講座(5分)

Clubhouseという、音声SNSがかなり流行って来ている。

米国で2020年3月にローンチされたサービスだが、関連ツイートの急増っぷりを見ると、日本では今週前半(1/25〜26)くらいが『アーリーアダプター内でのキャズム超え』だったんじゃないかと感じている。

(今年に入ってから、日本の国番号の携帯電話でのSMS認証が許可されたからという噂も。)

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音声SNS『Clubhouse』 https://apps.apple.com/us/app/clubhouse-drop-in-audio-chat/id1503133294

 

逆に言えば、サービス初期のボーナスタイム(アーリーアダプターや有名人や変人しかいないレアで面白い時間)は、あと1、2週間くらいかもしれない。そういう体験が好きな人は、急いで招待してもらおう。

この記事は、Clubhouseのどこが新しいのか、どうやって始めるのか、エゲツない招待制の構造、日本での今後の展開予想などについて、SNSマーケひとすじ12年の専門家の視点から書いていく。

 

目次

どこが新しいの?

Clubhouseはひとことで言えば、音声チャット部屋を作って交流するSNSだ。

それなら大昔からSkypeがあるし、ゲーマー御用達のDiscordもある。iPhoneアプリの初期には「斎藤さん」なんていう不特定多数とボイスチャットするサービスも流行った。

それでもClubhouseが画期的と言われる理由は、とことん機能を削ぎ落として研ぎ澄まされたユーザー体験だ。

まず、音声コミュニケーション以外の機能が、徹底的に削ぎ落とされている。いいね、コメント的な機能も、テキストや画像やURLをやり取りする方法もない。全く新しいサービスにとっては、引き算のデザインが理想的だが、なかなか出来るものではない。

 

このアプリでできることは、

  1. チャット部屋を作って人を呼ぶ
  2. リスナー(聴き手)として話を聞く
  3. スピーカー(話し手)として話す
  4. 定期配信チャンネル(club)を運営する

のおもに4つだけである。そして画像や映像の要素は皆無だ。


とてつもなく手軽だし、中毒性がある。気軽にどこかの部屋に入ると、まずは「リスナー」になる。自分が話したい時は「挙手」機能でアピールして、部屋の管理者の判断で「スピーカー」として引き上げてもらうこともできる。

発言が強制されないから、ラジオアプリのような画面を消しての「ながら聴き」がしやすいし、リモコンで番組を切り替えるようにザッピングしながらの聴取にも最適だ。しかも、入れる部屋は一度に一つだけ。同時に複数の部屋に入れないのでトーク内容に集中できるし、逆に部屋を出入りして他の部屋を気軽に覗きにいくことに抵抗がないUIになっている。


また、ボイスチャットとしての音声クオリティも高い。音質もいいし、なにより遅延が非常に少ない。発言者に順番にスポットライトが当たるZoom会議とは違って、同時に発声出来る人数も多いので、パート分けして合唱も出来るかもしれない。ちなみに、このサービスを楽しむのなら、AirPods Proのようなマイク機能つきのワイヤレスイヤホンは、基本的人権レベルの必須アイテムだと思う。

 

【Clubhouseの特徴まとめ】

  • 音声コミュニケーション以外の機能が、徹底的に削ぎ落とされている 
  • ルーム内では、リスナー、スピーカーの2つの権限を、簡単に行き来できる
  • ながら聴き、ザッピング(リモコンで番組を切り替えるような)に最適
  • ボイスチャットとしてのUI/UXも、音声クオリティも高い

 

どうやって始めるの?

まず、現時点ではiOS向けアプリなので、PCやAndroidからは使えない。

次に、Clubhouseは完全招待制なので、招待が無いと使えない。すでにサービスを使っている知り合いを探してみよう。

アプリは、招待される前にインストールして「招待待ち状態」にしておくのがオススメ。理由は、先に押さえておきたいアカウントID(英数字)を予約できるから。使いたい「アカウント名」を先に予約しておくと、いざ招待された後に最速で使えるようになるのでオススメだ。

新規登録に必要なのは「iPhone」と「招待コード」と「電話番号」だけである。


※新しい仕様がわかって来たので追記

・お互いがiOSの「連絡先」に電話番号を登録してる同士なら、招待枠を消費せずに招待が可能(Activity通知欄に出て来る)。ただし、誘われる側は、先に「招待待ち」状態まで登録を進めておく必要がある。

・招待枠は後からも増える。詳細条件は不明だが、自分がモデレーターになって部屋を開いてる時間か回数が一定以上になると、新たに3枠追加されるという話だ。

 

エゲツない招待制の構造

招待制SNSといえば、mixiを思い出す人も多いのでは? Clubhouseも完全招待制だが、特殊なルールによって、芋づる式に増えるクレバーな仕組みになっている。

  • ユーザーが招待可能な人数を、たった『2人』のみ招待
  • 誰かを招待するにはiOSの「連絡先」データ取得権限の付与が「必須」

2人という招待枠の数には度肝を抜かれた。誰を誘うにしても少なすぎる。案の定、あちこちで話題になっていた。この枠を有効活用しようとすると、特に仲がいい友人のためにとっておくか、狭いコミュニティの中で全員登録するために順繰りにバトンを渡していくか、そのどちらかになりがちだ。自分は後者のやり方で招待してもらった。招待制の大きなメリットは、すでに仲がいい友人と一緒にサービスをスタートできるという点だ。SNS上での交流をロケットスタートすることができる。

一方、2番めの「連絡先」必須の仕様もヤバい。知人のデータの全てがサービス側に流れることになる。これはLINEがサービス開始時に使った手法で、当時は利用期限などもなく権限が更新され続けて後に問題視されたが、間違いなくサービスの普及を牽引した。おそらくClubhouseでも、このデータはマッチングやレコメンドに使われているようだ。

機能はシンプルに、招待の仕組みはパワフルに、はClubhouseのマーケティング戦略的な特徴かもしれない。

 

日本での今後の展開予想

Clubhouseは、新しいSNSとして定着するのだろうか? それともまたマストドンのように、いっとき華々しく持ち上げられ、ゆるやかに絶滅してしまうのだろうか?

ユーザーの行動を見ると、アーリーアダプター達は例によって数日間は遊び倒してから、飽きてまた他のサービスに行きそうだ。この後に流れ込んで来るのは、ビジネス知名度の向上やオンラインサロン勧誘などに使いたいビジネスユーザー達と、先行者利益を活かしてYouTuberのように『稼げるClubhouser』になりたい人達だろう。現時点でも芸能音楽業界やマスメディアの関係者は増えて来ているが、芸能人や有名人もどんどん参入してくると思っている。そうなれば、スピーカーとリスナーがダイナミックに切り替わるような部屋は減っていくだろう。あと、これは予言しておくが、たぶん今から1ヶ月以内に、Clubhouse内で誰かが話したヤバい内容がTwitterなどに流れて炎上事件が起こると思っている。一般人への普及はそこから始まるだろう。

結果的にClubhouseは日本では、そこまで定着しないと思っている。日本人は挙手をしてまで自分の考えを述べることに慣れていないからだ。結局は有名人がスピーカーとして固定され、それを一般人が聞くスタイルに落ち着き、SHOWROOM、17ライブなどのライブ配信アプリと変わらなくなって行くのではないか。一方で、クローズドな使い方にはまだまだ可能性がある気もしている。

 

ClubhouseとSNSの未来について語る会やります 

そんな未来予想トークも含めて、ClubhouseとSNSの未来について語るルームを、しばらくは毎週水曜19時に定期開催します。

Clubhouseに参加できた人は、ぜひ気軽に遊びに来てください。リスナーとしての参加も、飛び入りスピーカーも大歓迎です。

www.joinclubhouse.com

 

ちなみに、岡安モフモフのアカウントはこちら( @mofumofu )。

フォローしてね!

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Clubhouse @mofumofu

 

SNSにおける「大きな物語」は再び失われ、「中くらいの物語」を共有するクラスターの時代へ

COVID-19(新型コロナウイルス)で世界中が揺れる中、SNS(とりわけTwitter)の世界もまた揺れている。

政治思想の対立、クソリプ、日常的な炎上、フェイクニュースの蔓延、トランプ大統領によるSNS運営企業への恫喝。

このエントリは、そんな混迷の時代に、これからのSNSを読み解く試みだ。

 

断章の時代

「釣りの終焉」と「フェイクの時代」 - シロクマの屑籠

この記事で語られていた「釣り文化の終焉」とは、ひとことで言えば「文脈の喪失」である。

共通認識が成立し得ないほどに、ネットの世界は、そしてTwitterの世界は広がってしまった。現実社会におけるポストモダンの言説では、「大きな物語の終焉」と呼んでいた現象であり、遥か昔に予見されていた。

 

Twitterに関して言えば、最大140文字の1ツイートを超える、いかなる物語も文脈も、もはや失われている(字数制限は国や条件で異なりますけど?というクソリプはしないように)。

そんな中、Twitter運営側は必死に「物語構造」を作ろうとして、結果的に失敗している。それはモーメントやスレッドなどの機能である。

 

Twitter公式版Togetterとも言えるモーメント機能は、ほとんど普及していない。そもそもTwitterは、外部に置かれたコンテンツのリンクをシェアすることに適したインフラだからだ。コミュニケーションを活性化するために(恐らくは広告効果や株主利益を拡大するために)導入されたスレッド機能は、有名人のツイートへの便乗やクソリプの蔓延を招き、結果的にコミュニティの分断を加速させる結果になっている。

 

SnapchatやFacebookやInstagramなど、Twitter以外のSNSには「ストーリー」と呼ばれる機能がある。

 

あのネーミングは皮肉だ。

そこには物語性などなく、一定期間で自動的に消失する。一方的な自己顕示の言説や、切り刻まれた断章しか存在しない。世界は、そんな断章すらストーリーと呼ばざるを得ないほど分断されている。

 

Twitterのはらむ構造的な矛盾と葛藤 〜 「大きな物語」は二度死ぬ

かつてTwitterと他のSNSの絶対的な違い、と信じられていた概念がある。

FacebookやInstagramなど他のSNSの投稿は、何者かに宛てた記事(エントリ)や、知人と共有する日々の記録(ライフログ)だが、Twitterのそれは「つぶやき」にも似た自己完結的な言説であり、反応や返信を期待しないということだ。

 

「Twitterのコミュニケーションの本質は、反応を期待しないつぶやきである」という時代は確かに存在した。
Twitterの創始者集団の中でも、この認識は共有されていない。サービスを育てたエブが去り、Twitterのプロトタイプである「STATUS」の概念を貫くジャックが後を継いだことで、コンセプトはさらに複雑化している。

 

情報のインフラであるべきか、

個人のメディアであるべきか。

 
これらを両立させる道筋は、Twitterのサービス規模が小さいうちは確かに存在していた。少なくとも、SNSという人類が手にした新しいサービスの未来を信じる「大きな物語」があり、ユーザーがこの場を愛し、遊び、懸命に育てようとしていた時代には。

 

懐古にひたる趣味はない。SNSに限らず、あらゆるサービスがキャズムを遥かに超えて万人の使うサービスになる際には、必ず初期ユーザーにとっての喪失を伴うものだ。

それにしてもTwitterは迷走している。その理由は明らかで、懸命にカオスを制御しようとしているからだ。それはガンジス川を清流に変えようとするがごとき徒労だ。

 

Twitterには、新たな人も思想も情報も流入し続ける。Twitterが唯一無二の情報インフラである限り、その流れは止まらないし、それらを制御し統制することも不可能に近い。

しかし株主らが保有する私企業であるTwitter社はそれを求められる。拡大と統制というアクセルとブレーキを同時に求められ続ける。

 

「中くらいの物語」とクラスター

そろそろ結論に向かう。

 
我々は今、SNSという仮想世界にかつて幻想のように浮かび上がった「大きな物語」の残滓すらも消えた時代に生きている。

今のTwitterは単なる社会の写し鏡であり、それ以上でも以下でもない。最初からそうだったのだが、一時(10年ほどの微睡の中)だけ我々は同じ夢を見ていたのだ。

 

現実社会でも「大きな物語の残滓」が完膚なきまでに破壊されようとしている。ご存知、新型コロナウイルスの蔓延による世界の不可逆的な変容のことだ。

奇しくもその時期は、SNSにおける物語の喪失の時期と重なってしまった。そんな時代を生き抜くために、必要な物語のサイズがある、と自分は考える。

 

今必要とされる物語は、宗教や政治思想のような皆が共有する大きな物語ではないし、ただ孤立し自分だけの世界に閉じこもる小さな物語でもない。

 

どちらでもない「中くらいの物語」(medium stories)だ。

 

それは、サンゴのように群れるのでもなく、中世の隠者のように孤立するのでもない、「孤のまま繋がる」ための物語だ。

 

仲間を増やし世界を飲み込もうとする「大きな物語」は、ウイルスだけで充分だ。とはいえ、ステイホームで自分の小さなセカイだけに孤立していては兎のように寂し過ぎて死んでしまう。

「孤のままつながる」ために、「中くらいの物語」だけを支えるための新しいSNSインフラが今求められていると思う。

 

「中くらいの物語」を支えてくれる、新たなSNSを探す旅が始まっている。

 

そのキーワードのひとつは奇しくも「クラスター」だ。

 

現実社会でのクラスターが(疫学的な理由で)許されない今、ネット上にこそ新たなクラスターを構築する必要性が高まっている。自分もまた、そんな世界を実現するサービスを新しく作ろうとしている1人だ。

 

※本稿は、モフモフがTwitterに連投したスレッドに加筆修正して作られた。  https://t.co/uTPygjkwRG

 

告知

毎週水曜18時から、SNSを主なテーマにして、YouTube LIVEでゆるいライブ配信をしています。本日6/2(水)のテーマは、「SNSってこの先どうなるの?」。YouTubeチャンネル登録をして、配信開始をお待ち下さい。

【モフモフ社長のゆるゆるライブ!】

https://youtu.be/FUvZdZQNI98

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映画「JOKER」のテーマを考える 〜 ジョーカーへの共感の正体 〜

映画「JOKER(ジョーカー)」を観た。言わずと知れた、バットマンの悪役の誕生秘話を描いた前日譚だ。ノーラン監督の手掛けた「バットマン・ビギンズ」は、以降のアメコミヒーロー映画がリアルな描写や人物造形でヒーローやヴィランの誕生と対立を描くという方向にシフトするきっかけになった作品だ。そして、その完成形とも言うべき金字塔が、故・ヒース・レジャーの神憑り的な演技が生み出した新生ジョーカーとバットマンとの心を抉るような対立を描いた「ダークナイト」であることは言うまでもない。

 

もちろん、今作「JOKER」はノーラン監督作品ではないし、過去のシリーズとのつながりも無い。ここから新たなバットマンシリーズが始まる予感はするが、どちらかと言えば人気キャラクターを借りて、自分の語りたいテーマを描いた作品という印象が強い。この意味では、ノーラン監督が3部作でやったことと非常に近いのかもしれない(たぶん監督は「ダークナイト」を撮りたくて3部作を引き受けたはずだ)。

 

前評判や期待値が高過ぎたこともあるが、そこまでの衝撃はなかった。アメコミのヴィランの誕生を描くキャラクタームービーという手法を取りながらも、搦め手を使わずにテーマを真正面から丁寧に描いた、凄くまっとうな映画だった。ただ、今の時代にアメリカを舞台にこの映画を撮り、ハリウッドの配給に載せて全世界に届けることには、大きな意味があると思った。王道のストーリーのディテール描写を味わうタイプの映画で、ネタバレを気にするものではないのだが、本稿では本筋に触れない概念的なテーマ考察を中心に、話を進めて行く。

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これは強者と弱者の映画だ。

スクリーンには、徹底して強者と弱者の姿が描かれる。その姿の多くは、他人事として遠くから眺めれば喜劇なのだが、弱者側の視点から見ればまぎれもない悲劇だ。冒頭シーンとラストシーンが、それを明確に示している。

 

この映画は、強者と弱者の非対称性をえぐり出す。

強者にとって、暴力と幸福は日常であり、奉仕と抑圧は非日常でしかない。富める者の持つ暴力性は、しばしば社会構造に覆い隠され、不可視となる。
弱者にとっては、奉仕と抑圧こそが日常であり、暴力と幸福は非日常または妄想の中にしかない。作中でジョーカーの過ごす日々は、職場でも家でも奉仕と抑圧の連続であり、ささやかな幸福な日常は、思い込みや夢や妄想やフィクションの中にしか存在しない。貧困と障害と介護に疲弊した日常の中で、ジョーカーに向けられた理不尽な裏切りや直接的な暴力は、彼の中の暴力の芽を着実に育んでいく。

 

弱者の日常である地道な労働や奉仕は誰にも褒められないが、強者の行うPRとしての奉仕や慈善活動は、強いブランドイメージを生み、さらなる富を呼び込む。

強者の暴力と弱者の抑圧は笑いとして消費されるが、追い詰められた弱者がまれに暴力を行使すると、それは眉をひそめる凶悪事件として消費され、さらなる弱者集団への抑圧を生む。

これはマウンティングとヒエラルキーをベースにした資本主義社会の基本構造とも言えるのだが、本作の舞台となるようなストライキやデモの続く非常事態=非日常下においてはそのルールが時に逆転現象を起こす。かくして、ジョーカーの起こした凶悪犯罪は、強者に抑圧された弱者集団にとっての解放の象徴として祭り上げられる。しかし、彼自身にはそんな崇高な政治的意図はない。民衆は、ジャンヌ・ダルクのように都合の良い依代を求めただけなのだ。

今作におけるジョーカーは、無差別に暴力を振るうのではなく、彼なりに筋を通している。彼の暴力衝動はいつでも、彼を抑圧し暴力を加えた対象に対する、主観的で純然たる怒りだ。だからこそ、観客は思わず彼に共感してしまう。抑圧から暴力に至るカタルシス。これが観客のジョーカーへの共感の正体だ。

彼の行う私刑という手段の正当性を無視して、彼の持つ正義や怒りの感情の正当性だけを見て共感してしまっている。これは現在のSNSでしばしば起こっている「正義の暴力の正当化」構造だが、ジョーカーに共感している人々の多くは、果たしてこの矛盾と恐ろしさに気づいているのだろうか。正義の名のもとに誰かを断罪する時、あなたは(そして私は)強者と弱者、どちらの側に立っているのだろうか?

 

いくつかのレビューで、本作における人種や職業や男女や障害者の扱いがポリコレ的にかなり雑なのではないか、という意見があった。それは全くそのとおりで、そこはテーマに沿って綺麗に構造を作るのではなく、違和感の無いようにいわば適当に決められているように思う。本筋である「強者と弱者」「暴力と抑圧」そして「悲劇と喜劇」というテーマを描くために、そこに無関係な要素を絡めたくなかったのではないだろうか。

 

革命を、抑圧されて来た弱者集団が強者集団を暴力をもって打ち倒し、自らが強者の座につくことと定義するならば、そこには弱者を立ち上がらせるためのストーリーと、強者を打ち倒す暴力の象徴となるカリスマ(しばしばスケープゴートとしての鉄砲玉)が必要になる。

 

かつての強者を打ち倒し、新たな強者の座についた弱者は、果たして弱者なのだろうか? 強者なのだろうか? 革命家がそのまま新たな政権で王座につくことは、独裁と腐敗を生む。歴史が繰り返して教えて来たことだ。それが革命ではなくテロリズムであれば、どうだろうか?

新たな秩序のための戦いではなく、不公平への反逆心から現状の破壊のみを望むテロリズムにとって、混沌こそが日常だ。もし「JOKER」の後の物語が、原作や過去のバットマンシリーズの展開を踏襲するのであれば、今後のジョーカーが身を投じるのは、そのような終わりのない怨嗟の渦巻く世界だ。

革命の時が終わり、世界にひと時の日常が訪れる時、彼の日常は幸福に満ちているのだろうか? 新たな秩序を維持するために、暴力をふるい続けるのだろうか? それとも混沌を日常とし、自らを犠牲にし続けるのだろうか?

 

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「ハングオーバー!」など、喜劇映画の名手と言われるトッド・フィリップス監督は、何故このようなジョーカーの映画を撮るに至ったのか。

その真意がわかるような続編が待たれる。

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