モフモフ社長の矛盾メモ

ヒゲとメガネとパンダと矛盾を愛するアーガイル社のモフモフ社長が神楽坂から愛をこめて走り書きする気まぐれメモランダム

SNSにおける「大きな物語」は再び失われ、「中くらいの物語」を共有するクラスターの時代へ

COVID-19(新型コロナウイルス)で世界中が揺れる中、SNS(とりわけTwitter)の世界もまた揺れている。

政治思想の対立、クソリプ、日常的な炎上、フェイクニュースの蔓延、トランプ大統領によるSNS運営企業への恫喝。

このエントリは、そんな混迷の時代に、これからのSNSを読み解く試みだ。

 

断章の時代

「釣りの終焉」と「フェイクの時代」 - シロクマの屑籠

この記事で語られていた「釣り文化の終焉」とは、ひとことで言えば「文脈の喪失」である。

共通認識が成立し得ないほどに、ネットの世界は、そしてTwitterの世界は広がってしまった。現実社会におけるポストモダンの言説では、「大きな物語の終焉」と呼んでいた現象であり、遥か昔に予見されていた。

 

Twitterに関して言えば、最大140文字の1ツイートを超える、いかなる物語も文脈も、もはや失われている(字数制限は国や条件で異なりますけど?というクソリプはしないように)。

そんな中、Twitter運営側は必死に「物語構造」を作ろうとして、結果的に失敗している。それはモーメントやスレッドなどの機能である。

 

Twitter公式版Togetterとも言えるモーメント機能は、ほとんど普及していない。そもそもTwitterは、外部に置かれたコンテンツのリンクをシェアすることに適したインフラだからだ。コミュニケーションを活性化するために(恐らくは広告効果や株主利益を拡大するために)導入されたスレッド機能は、有名人のツイートへの便乗やクソリプの蔓延を招き、結果的にコミュニティの分断を加速させる結果になっている。

 

SnapchatやFacebookやInstagramなど、Twitter以外のSNSには「ストーリー」と呼ばれる機能がある。

 

あのネーミングは皮肉だ。

そこには物語性などなく、一定期間で自動的に消失する。一方的な自己顕示の言説や、切り刻まれた断章しか存在しない。世界は、そんな断章すらストーリーと呼ばざるを得ないほど分断されている。

 

Twitterのはらむ構造的な矛盾と葛藤 〜 「大きな物語」は二度死ぬ

かつてTwitterと他のSNSの絶対的な違い、と信じられていた概念がある。

FacebookやInstagramなど他のSNSの投稿は、何者かに宛てた記事(エントリ)や、知人と共有する日々の記録(ライフログ)だが、Twitterのそれは「つぶやき」にも似た自己完結的な言説であり、反応や返信を期待しないということだ。

 

「Twitterのコミュニケーションの本質は、反応を期待しないつぶやきである」という時代は確かに存在した。
Twitterの創始者集団の中でも、この認識は共有されていない。サービスを育てたエブが去り、Twitterのプロトタイプである「STATUS」の概念を貫くジャックが後を継いだことで、コンセプトはさらに複雑化している。

 

情報のインフラであるべきか、

個人のメディアであるべきか。

 
これらを両立させる道筋は、Twitterのサービス規模が小さいうちは確かに存在していた。少なくとも、SNSという人類が手にした新しいサービスの未来を信じる「大きな物語」があり、ユーザーがこの場を愛し、遊び、懸命に育てようとしていた時代には。

 

懐古にひたる趣味はない。SNSに限らず、あらゆるサービスがキャズムを遥かに超えて万人の使うサービスになる際には、必ず初期ユーザーにとっての喪失を伴うものだ。

それにしてもTwitterは迷走している。その理由は明らかで、懸命にカオスを制御しようとしているからだ。それはガンジス川を清流に変えようとするがごとき徒労だ。

 

Twitterには、新たな人も思想も情報も流入し続ける。Twitterが唯一無二の情報インフラである限り、その流れは止まらないし、それらを制御し統制することも不可能に近い。

しかし株主らが保有する私企業であるTwitter社はそれを求められる。拡大と統制というアクセルとブレーキを同時に求められ続ける。

 

「中くらいの物語」とクラスター

そろそろ結論に向かう。

 
我々は今、SNSという仮想世界にかつて幻想のように浮かび上がった「大きな物語」の残滓すらも消えた時代に生きている。

今のTwitterは単なる社会の写し鏡であり、それ以上でも以下でもない。最初からそうだったのだが、一時(10年ほどの微睡の中)だけ我々は同じ夢を見ていたのだ。

 

現実社会でも「大きな物語の残滓」が完膚なきまでに破壊されようとしている。ご存知、新型コロナウイルスの蔓延による世界の不可逆的な変容のことだ。

奇しくもその時期は、SNSにおける物語の喪失の時期と重なってしまった。そんな時代を生き抜くために、必要な物語のサイズがある、と自分は考える。

 

今必要とされる物語は、宗教や政治思想のような皆が共有する大きな物語ではないし、ただ孤立し自分だけの世界に閉じこもる小さな物語でもない。

 

どちらでもない「中くらいの物語」(medium stories)だ。

 

それは、サンゴのように群れるのでもなく、中世の隠者のように孤立するのでもない、「孤のまま繋がる」ための物語だ。

 

仲間を増やし世界を飲み込もうとする「大きな物語」は、ウイルスだけで充分だ。とはいえ、ステイホームで自分の小さなセカイだけに孤立していては兎のように寂し過ぎて死んでしまう。

「孤のままつながる」ために、「中くらいの物語」だけを支えるための新しいSNSインフラが今求められていると思う。

 

「中くらいの物語」を支えてくれる、新たなSNSを探す旅が始まっている。

 

そのキーワードのひとつは奇しくも「クラスター」だ。

 

現実社会でのクラスターが(疫学的な理由で)許されない今、ネット上にこそ新たなクラスターを構築する必要性が高まっている。自分もまた、そんな世界を実現するサービスを新しく作ろうとしている1人だ。

 

※本稿は、モフモフがTwitterに連投したスレッドに加筆修正して作られた。  https://t.co/uTPygjkwRG

 

告知

毎週水曜18時から、SNSを主なテーマにして、YouTube LIVEでゆるいライブ配信をしています。本日6/2(水)のテーマは、「SNSってこの先どうなるの?」。YouTubeチャンネル登録をして、配信開始をお待ち下さい。

【モフモフ社長のゆるゆるライブ!】

https://youtu.be/FUvZdZQNI98

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映画「JOKER」のテーマを考える 〜 ジョーカーへの共感の正体 〜

映画「JOKER(ジョーカー)」を観た。言わずと知れた、バットマンの悪役の誕生秘話を描いた前日譚だ。ノーラン監督の手掛けた「バットマン・ビギンズ」は、以降のアメコミヒーロー映画がリアルな描写や人物造形でヒーローやヴィランの誕生と対立を描くという方向にシフトするきっかけになった作品だ。そして、その完成形とも言うべき金字塔が、故・ヒース・レジャーの神憑り的な演技が生み出した新生ジョーカーとバットマンとの心を抉るような対立を描いた「ダークナイト」であることは言うまでもない。

 

もちろん、今作「JOKER」はノーラン監督作品ではないし、過去のシリーズとのつながりも無い。ここから新たなバットマンシリーズが始まる予感はするが、どちらかと言えば人気キャラクターを借りて、自分の語りたいテーマを描いた作品という印象が強い。この意味では、ノーラン監督が3部作でやったことと非常に近いのかもしれない(たぶん監督は「ダークナイト」を撮りたくて3部作を引き受けたはずだ)。

 

前評判や期待値が高過ぎたこともあるが、そこまでの衝撃はなかった。アメコミのヴィランの誕生を描くキャラクタームービーという手法を取りながらも、搦め手を使わずにテーマを真正面から丁寧に描いた、凄くまっとうな映画だった。ただ、今の時代にアメリカを舞台にこの映画を撮り、ハリウッドの配給に載せて全世界に届けることには、大きな意味があると思った。王道のストーリーのディテール描写を味わうタイプの映画で、ネタバレを気にするものではないのだが、本稿では本筋に触れない概念的なテーマ考察を中心に、話を進めて行く。

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これは強者と弱者の映画だ。

スクリーンには、徹底して強者と弱者の姿が描かれる。その姿の多くは、他人事として遠くから眺めれば喜劇なのだが、弱者側の視点から見ればまぎれもない悲劇だ。冒頭シーンとラストシーンが、それを明確に示している。

 

この映画は、強者と弱者の非対称性をえぐり出す。

強者にとって、暴力と幸福は日常であり、奉仕と抑圧は非日常でしかない。富める者の持つ暴力性は、しばしば社会構造に覆い隠され、不可視となる。
弱者にとっては、奉仕と抑圧こそが日常であり、暴力と幸福は非日常または妄想の中にしかない。作中でジョーカーの過ごす日々は、職場でも家でも奉仕と抑圧の連続であり、ささやかな幸福な日常は、思い込みや夢や妄想やフィクションの中にしか存在しない。貧困と障害と介護に疲弊した日常の中で、ジョーカーに向けられた理不尽な裏切りや直接的な暴力は、彼の中の暴力の芽を着実に育んでいく。

 

弱者の日常である地道な労働や奉仕は誰にも褒められないが、強者の行うPRとしての奉仕や慈善活動は、強いブランドイメージを生み、さらなる富を呼び込む。

強者の暴力と弱者の抑圧は笑いとして消費されるが、追い詰められた弱者がまれに暴力を行使すると、それは眉をひそめる凶悪事件として消費され、さらなる弱者集団への抑圧を生む。

これはマウンティングとヒエラルキーをベースにした資本主義社会の基本構造とも言えるのだが、本作の舞台となるようなストライキやデモの続く非常事態=非日常下においてはそのルールが時に逆転現象を起こす。かくして、ジョーカーの起こした凶悪犯罪は、強者に抑圧された弱者集団にとっての解放の象徴として祭り上げられる。しかし、彼自身にはそんな崇高な政治的意図はない。民衆は、ジャンヌ・ダルクのように都合の良い依代を求めただけなのだ。

今作におけるジョーカーは、無差別に暴力を振るうのではなく、彼なりに筋を通している。彼の暴力衝動はいつでも、彼を抑圧し暴力を加えた対象に対する、主観的で純然たる怒りだ。だからこそ、観客は思わず彼に共感してしまう。抑圧から暴力に至るカタルシス。これが観客のジョーカーへの共感の正体だ。

彼の行う私刑という手段の正当性を無視して、彼の持つ正義や怒りの感情の正当性だけを見て共感してしまっている。これは現在のSNSでしばしば起こっている「正義の暴力の正当化」構造だが、ジョーカーに共感している人々の多くは、果たしてこの矛盾と恐ろしさに気づいているのだろうか。正義の名のもとに誰かを断罪する時、あなたは(そして私は)強者と弱者、どちらの側に立っているのだろうか?

 

いくつかのレビューで、本作における人種や職業や男女や障害者の扱いがポリコレ的にかなり雑なのではないか、という意見があった。それは全くそのとおりで、そこはテーマに沿って綺麗に構造を作るのではなく、違和感の無いようにいわば適当に決められているように思う。本筋である「強者と弱者」「暴力と抑圧」そして「悲劇と喜劇」というテーマを描くために、そこに無関係な要素を絡めたくなかったのではないだろうか。

 

革命を、抑圧されて来た弱者集団が強者集団を暴力をもって打ち倒し、自らが強者の座につくことと定義するならば、そこには弱者を立ち上がらせるためのストーリーと、強者を打ち倒す暴力の象徴となるカリスマ(しばしばスケープゴートとしての鉄砲玉)が必要になる。

 

かつての強者を打ち倒し、新たな強者の座についた弱者は、果たして弱者なのだろうか? 強者なのだろうか? 革命家がそのまま新たな政権で王座につくことは、独裁と腐敗を生む。歴史が繰り返して教えて来たことだ。それが革命ではなくテロリズムであれば、どうだろうか?

新たな秩序のための戦いではなく、不公平への反逆心から現状の破壊のみを望むテロリズムにとって、混沌こそが日常だ。もし「JOKER」の後の物語が、原作や過去のバットマンシリーズの展開を踏襲するのであれば、今後のジョーカーが身を投じるのは、そのような終わりのない怨嗟の渦巻く世界だ。

革命の時が終わり、世界にひと時の日常が訪れる時、彼の日常は幸福に満ちているのだろうか? 新たな秩序を維持するために、暴力をふるい続けるのだろうか? それとも混沌を日常とし、自らを犠牲にし続けるのだろうか?

 

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「ハングオーバー!」など、喜劇映画の名手と言われるトッド・フィリップス監督は、何故このようなジョーカーの映画を撮るに至ったのか。

その真意がわかるような続編が待たれる。

マナーには、5つのレイヤーがある

いわゆる「マナー」には、大きく分けて5つのレイヤーがあるが、これらを混同したままの不毛な議論が非常に多い。

 

マナーの、5つのレイヤーを紹介しよう。

 

  1. 他人と利害を調整する『ルール』
  2. 相手を不快にさせない『作法』
  3. 物事を上手にこなす『テクニック』
  4. 相手に好印象を与えるための『所作』
  5. 同類であることを示す『共通コード』


上の方の『ルール』は(例えば、順番を守る、など)、集団社会で生きていく上で必須の常識だが、下になるほどハイコンテクスト(前提条件となる文化や文脈を理解しないと意味不明)になり、他人と差をつけるためのライフハック的なものになっていく。

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先日話題になっていた「箸の持ち方問題」でも、これら5つを混同した挙句、互いに意見が全く噛み合っていない様子が多く見られた。

 

箸の持ち方教育の肯定派の多くは、正しい持ち方は相手を不快にさせない『作法』だし、一番食べやすい持ち方の『テクニック』であることを表向きの支持理由にしていた。

しかし同時に、正しく箸を持てない人とは付き合いたくない、育ちが悪く見られる、などの発言も多く、結局のところ肯定派は好ましい『所作』や階級を示す『共通コード』としての役割を重視していることがわかる。

 

一方で、箸の持ち方教育の否定派には、他人に迷惑をかけてないのだから自由だ、そんなことで人の価値を判断するな、という意見が多く見られた。

これはつまり、同類アピールのための『共通コード』や、他人に気に入られるための『所作』を、一般常識のような『ルール』『作法』として押し付けるな、という意思表示である。

 

これらの文脈を理解するためには、5つのレイヤーを正しく切り分けて理解する必要があるが、Twitterなどでは論点が完全にズレたままに不毛な議論が展開されており、変な階級闘争みたいな話にまで発展していたのは、非常に不幸なことだと思う。

 

このような混乱は、判子を傾けて押す謎のビジネスマナーの議論などでもたびたび起こっている。マナーを教える立場の教育者でさえ、なぜそれらを推奨すべきなのか、深く理解していないことが多い。

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そもそも、変なビジネスマナーの大半は、顧客や取引先や上司などの相手に気に入られるための工夫に満ちた『所作』から始まっている。それは誰かが発見して生み出したライフハックだ。

 

例えば、「偉い人から名刺をもらったら、商談中は座布団を引くように名刺入れの上に置く」とかいう謎マナーを聞いたことがあるが、こういうのは営業マンの誰かがたまたま思いついて実践したら顧客に気に入られたので、有効なノウハウとして他の営業にも勧めるようになった『所作』であり、ライフハックだろう。他の営業マンと差別化するために個人的に取り入れるのは自由だが、これを『ルール』や『作法』のような常識的なマナーとして全員に強制するのは、どう考えても横暴だ。

目上の人のビールのグラスが空いたらすかさず注ぐ、などの飲み会マナーも、上司や先輩に好かれるための『所作』であり、縦社会で生きている同類であることを示す『共通コード』である。決して、『ルール』や『作法』にあたる、万人向けのマナーではない。

 

他人に教育という名目でマナーを強制したり、何らかのマナーを批判したりする場合には、そのマナーが5つのレイヤーのどれに相当するものか、事前に考えてみると良いだろう。

 

Twitterやってます。フォローはお気軽に。

 

そういえば誕生日だった

目が覚めたら、今日は誕生日だった。

おめでとう、俺。

ありがとう、世界。

 

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というわけで、独り言に近い所感メモをこっそり書く。

 

はてな面でいうと、はてなブックマーカーとしては引き続き頑張りつつ、はてなブログはもっと高頻度かつ気軽にいろいろ書いて行こうと思ってます。

 

仕事面でいうと、アーガイル株式会社 / argyle Inc.を立ち上げて、今年の12月でちょうど10年目。

メインの収益源である法人向けツールとSNSコンサルは、ケンブリッジアナリティカの野郎のせいで各SNSのAPI仕様変更に踊らされたりしつつも相変わらず堅調。でも、新サービスについては企画と開発の期間が年単位で長引いて、なかなか世に出せてなかった。今期はそれら新サービスが一気に出揃いそうなので、健康に気をつけつつますます頑張るぞー!

作りたいサービスや製品のアイデアが山のようにあるのに、実現スピードが遅いので、体制面や資金面でも解決していきたいです。

あと、オフィスを2倍に増床したので(内装がひと段落したら後で改めて報告します)、なんか定期的にイベントをやっていきたい。ビジネス関連だけでなく、美味いもの食べる会とか、ゲームする会とか、ブレストする会とか、ゆるいやつを。

 

プライベート面でいうと、無理のない運動をしつつ5キロ痩せたい。スマホでの隙間時間つぶしを辞めたい。あと交友の時間をもう少し増やしていきたい。

 

ゲーム面でいうと、スプラトゥーン2に次ぐ据え置き機のハマりゲームをそろそろ見つけたいです。PS4のスパイダーマンは買った初日に数時間しかやってないので、反省している。あと、ドラクエ11をニンテンドースイッチで早く出してくれ!

 

サウナ面でいうと、最近の癒しは完全にたまに仕事帰りに直行する、サウナ+水風呂+外気浴+マッサージ+ビールになって来ているので、引き続き推進していきたい。都内のおすすめサウナが知りたい。

 

食べ歩き面でいうと、最近は平日の昼休みを取る時間がズレて神楽坂ランチの食べ歩きがあんまり出来てないので、もっと早く食べに出ることを心がけたい。地元は新規開拓しつつも、通いたくなる店を見つけたい。知人の誘いや新しい店に行く会にもどんどん参加して行きたい。

 

なんか新しいことを学びたいし、体験したいし、発信していきたい。集中力の低下に負けずに、43歳も好奇心全開で頑張ります!

犬童一利監督作品「きらきら眼鏡」に圧倒された

後悔している。この映画を、こんなに上映期間終了ギリギリに観てしまったことを。この映画の良さをどんなに伝えても、あと数日だけでは、これを読んだほとんどの人に劇場で観る機会が残されていないかもしれない。


この映画をいわゆるラブストーリーと思って観ると、良い意味で裏切られるかもしれない。とても優しい映画でありながら、自分の他に「大切な存在」を持つ全ての人々に叩きつけられた、美しくて残酷な問題提起だからだ。


これは、あらかじめすべてが喪われている物語だ。そして、世界のすべてが美しく見えるという『きらきら眼鏡』を心にかけて生きることの意味を問う、優しくて切ない物語である。

 

youtu.be

「きらきら眼鏡」予告編

 


前作「つむぐもの」の時にも思ったが、犬童一利監督の映画は、新しい作品を撮るごとにどんどん良くなって行く。犬童一利監督作品に共通する、独特なカメラの眼差しを無理矢理に言葉にするならば、それは「優しさに溢れたハードボイルド」だ。もしかすると、これは毎回共作している脚本家の守口悠介氏の眼差しでもあるかもしれない。

犬童一利監督の映画は、本当に驚くほどに、セリフや演技や演出でテーマを語らない。テレビドラマや邦画の伝統的なコードに全く縛られていない。具体的に言えば「作り手が作中の人物の感情に流されていない」のだ。

ただ、そこにいる人々を生来の優しい目線で切り取り、何も加えず何も引かずに(もちろん撮って出しなどではなく、結果的にそうなるように徹底的に計算しつくされた上で)観客に見せている。どこにでもいそうな人々の日常が、実に2時間ものあいだ観る人を惹きつけ続ける映画として見事に成立している。


分かりやすさが美徳とされる時代に、ここまでテーマの解釈を観客に委ねる商業映画があるのか、と驚くかもしれない。とはいえ、ストーリーも演技も描写もセリフも、難解なところはひとつとしてない。物語の筋もまっすぐ通っている。それなのに、あらゆるシーンで、その意味を深く深く考えさせられるのだ。あたかも自分の生きて来た人生を、あらためて客観的な映像で見せられているかのように。


喪った大切な人をいつまでも忘れることが出来ない、ということは、死ぬ者にとっても遺された者にとっても、残酷な呪縛であると同時に救済でもある。それらは表裏一体なのだ。


テレビ局が仕掛けるタレントづくしの邦画の、大仰な演出に飽き飽きしている人にこそ観てほしい映画だ。約2時間、登場人物たちと同じ時間軸をともに生きた末に、何気ないラストカットの信じられないほどの美しさを、その身でぜひ実感してほしい。


ちなみに都内は、シネマート新宿(伊勢丹の向かい、コメ兵の隣)で、10月18日(木)まで16時半からの上映。吉祥寺の「ココロヲ・動かす・映画館」では、10月21日(日)まで上映している。物語の舞台となっている千葉県のららぽーと船橋のTOHOシネマズでは、ロングラン上映が決まっているようだ。また、首都圏以外の劇場公開はこれからとのことなので、ぜひ観てほしい。

 

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